遠州横須賀・秋の御祭礼 小祢里(ちいねり) |
H30.9.16ちいねり千秋楽(三熊野神社境内) |
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全国に例のない、中学3年生以下の子どもたちだけで、お祭りのすべてを取り仕切る珍しい祭りです。
準備からお囃子の稽古、当日の運行に至るまで、4月大祭と同様のことを行う「子どもたちによる子どもたちの祭り」です。
子どもたちはこの「小祢里」で祭りの楽しさと同時に、厳しさや達成感のなかで、学校では決して学ぶことの出来ない、上下関係や仲間たちとの一体感を経験するのです。
そしてその経験を積んだ子どもたちはは、次代の「三熊野神社大祭」を背負っていく、立派な担い手として育っていくのです。
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14台「ちいねり」(小祢里)のご紹介
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小祢里(ちいねり)の歴史を紐解く
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昭和6.7.8年の4月3日神武天皇祭に、「ちいねり」が普門寺(西大谷地内)に集結した。4月7.8.9日は三熊野神社大祭でもあり、祭り熱は一層盛り上がったものであった。しかし、予算の関係もあり3年で打ち切られた。
※写真でつづるふるさと大須賀(S61.11.1発行)より転載
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「小祢里」の始まりは明治時代の初めと言われています。
昔の小祢里は年3回、正月・5月・9月の各氏神様の当たり日に、それぞれ祢里を曳きだしていました。
そのため、4月の三熊野神社大祭と合わせると、年間10回以上も祢里が出ていたことになり、「横須賀じゃぁ年がら年中祢里が出ている」言われたほどでした。
昭和30年代になると、学校・警察・総代会の申し合わせにより、年に1回9月の当たり日のみに祢里を曳くことと決めました。
また、昭和40年代にはばらばらだった祭礼日を統一し、昭和47年からは総社・三熊野神社の境内をお借りし、くじ引きから千秋楽に至るまで、すべて4月大祭と同様の形式で行うこととなりました。
昭和60年代になり、西大渕(古楠神社)、南番町(愛宕神社)が小祢里に参加、14台で行うようになり、現在に至っています。
近年では小子化や町の空洞化が進む中、子どもたちの数も少なくなり、「小祢里」の曳きまわしが危ぶまれる町もあり、深刻な問題となっています。
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かつての「ちいねり」で使用していた「大八車」
新屋町稽古場蔵
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黎明期のちいねりに関しての資料は、極めて少ない
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小祢里・各町の氏神様とその当たり日
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松室神社 |
河原町 |
17日(ゆえに御十七夜とよぶ) |
愛宕神社 |
拾六軒町・新屋町・東本町
中本町・西本町・軍全町 |
23日 |
軍神社
(軍全坊神社) |
軍全町 |
23日 |
水神宮 |
東田町・西田町・東新町
西新町・大工町 |
20日 |
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小祢里・今〜昔
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黎明期の「小祢里」は、青葉繁れる雑木を荷車の中心に立て、祢里に見立てて曳きまわされていました。(この形は今も掛川市下垂木地区の盆車として残る)
その後、粗末な物ながら「万度」「花差し」を取り付け、小太鼓・大太鼓ひとつずつを前後にしつらえ、祢里の形に近いものになりました。
昭和に入って西五町から祢里の形が整い始め、昭和30年代には全町で立派な「小祢里」を持つようになりました。
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昔の「ちいねり」を再現(H16.10.24ちっちゃな文化展)
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昼間仕様
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夜仕様
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拾六軒町ねりきち有志の皆さんによって、昭和初期の昔のちいねりが再現されました。文章や聞いたことはあっても、実際に組み立てられた「大八車」のちいねりを見たのは初めて。太鼓の取り付け方や縄のかけ方などを目の当たりにすることができました。「百聞は一見にしかず」ですね |
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